冒険できなくなった
— 未熟なリバタリアンがAIソクラテスと思考実験してみた (@bluesbookblog) July 22, 2025
技術は役割を超え、思考や行動を方向付けるシステムになっている
携帯電話がなかった時代、自分の判断と力で自然に挑んで帰還していたが
エベレスト登山すらツアー化し、高地順応のマニュアルに従い、ジェルパーが設置したロープで皆が同時に登っているhttps://t.co/i8cWH0i5sx
価値観がズレ続ける
— 未熟なリバタリアンがAIソクラテスと思考実験してみた (@bluesbookblog) July 22, 2025
既存のゴールを使い、内容の優劣を競うスポーツ化した
最大限の自由=自力で命を管理する冒険を求めるほど、楽しさや便利さを望む世間と感覚が乖離する
最も根本的な死に対する距離感が違い、冒険者が自力を主張すると、世間の趣味を批判するように映るhttps://t.co/i8cWH0i5sx
AIソクラテスと思考実験してみた
Q1: 冒険が果たしていた本来の役割は?
冒険の本来の役割は、自分の限界に挑み、命を自力で管理することだったと思います。なぜなら、技術や社会制度に頼らず、自らの五感と判断だけで自然と向き合う経験が、人間の根源的な力を発揮させていたからです。たとえば、携帯電話がなかった時代には、登山や旅はすべて自己判断で行い、危険も成功もすべて自分の責任でした。現代のようにGPSや通信機器、ガイドやマニュアルが整った状態では、冒険の意義が「挑戦」から「体験提供」に変わってしまっています。私はそれが、人間らしい生き方の喪失につながっていると感じました。
Q2: なぜ仕事では冒険の代わりにならないの?
仕事が冒険の代わりになれない理由は、現代の仕事があまりにもシステム化され、自分の判断だけではどうにもならないからです。本来、冒険は自分の命を自分で制御する場でしたが、仕事は会社の構造や社会のルールに縛られ、命ではなくルールの中で動くものになっています。たとえば、今の働き方ではスマホやAIによって行動も思考もアルゴリズム化され、自分で何かを選んでるつもりでも、実際は導かれているだけに感じることがあります。私はそこに、人間が持つ直感や判断力が活かされないもどかしさを感じています。
Q3: 冒険の喪失はなぜ起こったの?
冒険が失われたのは、地球上のほとんどの場所がすでに開拓されてしまったからだと思います。昔は北極点やエベレストなど、未知の場所に挑むことが冒険の定番でしたが、今ではそれらも国家規模のプロジェクトになり、個人の挑戦ではなくなっています。たとえばエベレスト登山も、今はマニュアルに従い、ロープや酸素を使って多人数で同時に登るツアー形式です。私は、そうした変化が「命を賭けた孤独な挑戦」から「整備されたルートを進むレジャー」に変えてしまったと感じています。
Q4: 冒険がスポーツになった理由は?
冒険がスポーツ化したのは、未知への挑戦がなくなった代わりに、既知のルートで内容の優劣を競う方向に移ったからです。なぜなら、本当に新しい場所が存在しない以上、人は制限やルールを自ら課すことで達成感を得ようとするからです。たとえば「エベレストを無酸素で単独登頂する」といった挑戦は、自分で制限を設けることで、冒険のような体験を再現しようとしている例です。私は、それが本質的な自由ではなく、あくまで条件付きの試練に過ぎないと感じます。
Q5: 冒険と「恐れ」の関係とは?
冒険には恐れが付き物で、その恐れを直感で捉え、自分の判断で対応することが人間の本来の力を引き出すのだと思います。なぜなら、危険な状況でこそ、五感が研ぎ澄まされ、人間の持つ本能的な力が発揮されるからです。旧石器時代の狩猟や農耕のように、人は自然と直接向き合い、自らの感覚だけで命を守っていました。私は、技術が安全を保証するようになったことで、そうした生き方が現代ではできなくなり、人間の能力が発揮されにくくなったと感じています。
Q6: 本能を活かせる環境はどこにある?
現代で本能や直感を活かせる環境は、技術から離れた場所にしか残っていないのではないかと思います。理由は、ほとんどの空間がスマホやGPS、AIなどに覆われていて、人間が自力で状況を判断する余地が減っているからです。たとえば、登山も冒険も、危険を感じたらすぐに引き返せる体制が整っていて、命を懸ける緊張感が薄れています。私は、それが自然と本気で向き合う体験を難しくし、人間の力を発揮しにくくしていると感じています。
Q7: なぜ冒険者と一般人で価値観がずれる?
冒険者と一般人の価値観がずれるのは、死に対する距離感が根本的に違うからだと思います。冒険者は「最大限の自由=自分の命を自力で管理すること」と考えますが、一般社会では楽しさや便利さを重視し、安全を前提とした価値観が支配的です。たとえば、エベレストに単独無酸素で挑むような人は、命の危険を受け入れてでも自由を追求する一方で、その行為が「一般人の生き方を否定している」と誤解されることもあります。私は、その誤解が、冒険者が社会と隔たって見える一因だと感じています。
Q8: 冒険者の価値観はどこで生かせる?
冒険者の感覚や価値観が現代で生かされているのは、自らルールを作って縛りを課すようなスポーツの世界だと思います。理由は、未知のフロンティアが失われた現代では、自分で制限を設けなければ挑戦の意味が作れないからです。たとえば、「冬季単独無酸素登頂」や「GPSを使わずに挑戦する」などは、制限を自分で課すことで冒険的な要素を再現しています。ただ、それも本来の「自然と向き合う冒険」には及ばず、私は本質的な意味では冒険とは言い難いと感じています。
Q9: 本物の冒険に必要な条件とは?
本物の冒険に必要な条件は、「命が本当にかかっていること」だと思います。なぜなら、命が懸かっていない状況では、どこかで「これはゲームだ」と思ってしまい、直感や本能が発揮されにくいからです。たとえば、VR空間でスリルを再現したとしても、実際にバイクで峠を攻めるときの緊張感や判断の重さには到底及びません。私は、生身の体と命を使って自然と向き合う経験こそが、人間の生きる力を目覚めさせるのだと実感しています。
Q10: 人はどうやって生の実感を得ている?
現代の人が「生きている実感」を得ようとする方法は、限られた環境の中で小さな挑戦を積み重ねることではないかと思います。理由は、命を懸けるような状況がほとんどなくなった今でも、人は自分の存在を確認する手段を求めているからです。たとえば、スポーツや過酷な趣味、あるいはSNSでの承認欲求など、日常の中で「少しの緊張」や「小さな不安」を楽しむことで、私はなんとか自分を感じようとしているように見えます。それでも本質的には、本能や直感が活きる状況が減ったことによる空虚さが残っていると感じています。
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