言葉の国際戦争が起きた
— ひろき@AIと思考実験してみた (@bluesbookblog) June 26, 2025
2009年🇮🇷大統領選挙で不正があったと拡散され🇺🇸国務省がメンテ延期を要請し、各国の政府が地球の隅々まで見張れるパノプティコンと化した
1日のツイート数
2007年5000
2008年30万
2009年3500万
2010年5000万
2011年1.4億
2012年3.4億
2013年~5億~https://t.co/Y5LqpteGD0
AIと思考実験してみた

Q1: 「言葉の国際戦争」とはどういう意味?
私は「言葉の国際戦争」という言葉を、思想や物語を言葉に乗せて世界中に拡散し、人々の認識を奪い合う競争として捉えています。理由は、SNSの普及によって個人の言論が瞬時に世界中に届くようになったからです。特に2009年のイラン大統領選では、不正疑惑がTwitterで拡散され、アメリカ国務省がTwitterのメンテナンス延期を要請するなど、国家レベルの介入が起こりました。私はこのような状況が、まさに言葉が戦争のように使われる時代の象徴だと感じています。ツイート数も2007年の1日5000件から2012年には3.4億件に増え、「言葉」が新たな力として急成長していった様子が見てとれます。
Q2: 物語と事実の違いはどう見分ける?
物語と事実の違いを見分けるには、再現性があるかどうかを基準にしています。理由は、科学的なアプローチでは何度繰り返しても同じ結果が得られることが真実とされているからです。私は宗教や陰謀論など、反証できないものは物語に近いと考えています。たとえば「祈れば救われる」と信じた結果救われなければ、「祈りが足りなかった」と解釈できてしまう。このような構造が物語と事実の境目を曖昧にしています。だから私は、再現性や反証可能性があるかどうかを物語と事実を分ける鍵と捉えています。
Q3: 信じる力に意味はある?
私は信じる力には確かな意味とメリットがあると思っています。理由は、信じることで自分自身の存在や行動に正当性や自信が持てるからです。人は「生きていてもいい」と思えなければ、日々の生活すら困難になる可能性があります。大学生の頃、私は自分の思想を共有したり、後輩にご飯を奢ったりするのが楽しかったです。それは自分の信じる価値を誰かと共有できることが、自分を肯定する手段だったからだと思います。信じる力は、人間が生きるための物語を形づくる進化的な仕組みだとも考えています。
Q4: 信じる力と他者の自由の間に線引きはある?
信じる力が他者の自由と衝突する可能性については、私は「最長期間の最大多数の最小不幸」を基準に線引きすべきだと考えています。理由は、グローバルに繋がりすぎた世界では、誰かの信念が他者の損失につながることがあるからです。私は「Win-Win」よりも、「Loseを生まない構造」が今の時代には重要だと思っています。発展途上国の犠牲の上に先進国の繁栄があるような仕組みは持続可能ではありません。信じる力を行使する際にも、誰かを傷つけていないか、無理を強いていないかを常に意識するべきです。
Q5: 他者と信念が衝突したらどうする?
私は、自分の信念が他者の価値観と衝突したときには、「シルバールール」を重視するべきだと考えています。理由は、「ゴールデンルール(自分がしてほしいことを他人にする)」だと価値観の押し付けになってしまうからです。たとえば、私は大学時代には後輩にご飯を奢るのが楽しかったですが、社会人になりストレスの中で働いたお金を使うとなると、同じようには感じられませんでした。だからこそ「自分がされたくないことをしない」という線引きのほうが、他人に無理をさせない配慮になると思います。
Q6: シルバールールの問題点は?
私は、シルバールールには無関心や傍観を助長するリスクがあると感じています。理由は、「関わらない」ことを正当化する口実になりうるからです。ただ、そのデメリットを理解したうえで状況によって使い分けるのが大事だと思っています。たとえば、私は他人の不幸を避けたいと思ってシルバールールを意識しますが、自分に余裕があるときには誰かの役に立つ行動も取りたいです。仏教的な考えでは「溶融」や「豊かさ」といった概念があり、自分が持つ資本の余剰を他人に分け与えることが徳とされている。私はその精神を大切にしています。
Q7: 豊かさの基準は何?
私にとっての豊かさとは、「他人に分かち合っても自分が苦しくならない資本を持っている状態」です。理由は、分け与える行為が負担になるなら、それは本当の豊かさではないと感じるからです。たとえば大学時代、私は気軽に後輩にご飯を奢れたのに、社会人になってからは稼ぐ過程がしんどくなって、同じようにはできませんでした。だから私は、そのときの生活や心の余裕をふまえて、自分が無理なく他人に与えられる範囲こそが「余剰」であり、「豊かさ」だと実感しています。
Q8: 社会的期待と自分の余剰がずれたら?
社会や文化が求める分かち合いと、自分の感覚的な「余剰」が食い違う場合、私はまず自分の基準を大切にすべきだと思います。理由は、無理をして他人に合わせると、自分自身が疲弊し、本来の「豊かさ」も損なわれるからです。たとえば私は、自分が気持ちよく奢れる状況ならそれを喜んでやりますが、社会的に期待されているから無理して行動することには違和感があります。そのうえで、自分の余剰を自覚したら、社会の期待に応える形で行動することもできます。つまり優先すべきは、自分の状態を正しく把握することです。
Q9: 余剰かどうかはどう判断する?
私は、ある資本を手放したときに「苦しい」と感じないかどうかで、それが余剰かどうかを判断しています。理由は、苦しさが出るならそれは余剰ではなく、生活に必要な部分だからです。たとえば大学時代、私は余裕を感じて後輩に自然とご飯を奢っていましたが、社会人になってからはストレスの中で稼いだお金を使うことが重たく感じるようになりました。その変化は、私にとっての「余剰」の境界が状況によって変わることを示しています。だからこそ私は、自分の感覚を大切にして、その都度判断するようにしています。
Q10: 他人への与え方に正解はある?
私は、他人への与え方に一つの正解はないと思っていますが、「自分の中の余剰で行う」「相手の望みを聞く」「無理をしない」という3点が大切だと考えています。理由は、与える行為が自分にとって負担であったり、相手の望まないものであった場合、結果的に良い関係性を築けないからです。たとえば仏教では、与える行為に「溶融」や「布施」の概念があり、自分の豊かさが他人のために自然と流れることが理想とされています。私も、そうした形での分かち合いができるときが一番心地よく、他人にも自分にも優しくなれると感じています。
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