本 要約【ことばと思考】今井 むつみ #1503

8語学
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AIソクラテスと思考実験してみた

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Q1: コップの分類で形と素材どちらを優先する?

私はコップの分類では、まずその「機能」が何より優先されると思います。なぜなら、言語や文化が違っても「飲み物を入れて飲む」という目的が共通しているからです。例えば、木製のコップとガラス製のコップがあったとして、形が同じなら日本語話者も英語話者もまずは「コップ」という機能で認識します。ただし、そのモノが壊れたり、使えない状態になると、今度は「素材」のほうで分類されるようになります。レモン絞りの例も分かりやすいです。木製と陶器のレモン絞りがあった場合、壊れてしまったら「木片」「陶器の欠片」として素材に注目するようになります。つまり、モノの分類はまず機能、次に素材という優先順位が共通してあるという点では、日本語話者も英語話者も実は似ているのかもしれません。

Q2: 機能の定義は文化ごとに変わる?

私は、機能の定義そのものはある程度、普遍的なものだと思います。なぜなら、「水を飲む」「レモンを絞る」など、モノの使い方としての基本的な動作は、どこの文化でも似ているからです。例えば、コップというものは、ただの容器であっても、液体を入れて飲むという行動が前提となっています。しかし、それがより用途の限定されたモノになると、たとえばレモン絞りのように、使い道が一つに絞られることで、そのモノの「機能」が一層はっきりしてきます。逆にコップのようにいろんな使い方ができるものは、機能の抽象度が上がり、定義が曖昧になっていくんだと思います。文化によって多少の違いはあるにせよ、根本的な「使う目的」は共通している部分が多いように感じます。

Q3: 機能で定義しにくいモノはどう分類する?

私は、機能で定義しにくいモノに出会ったとき、人は「素材」に注目して分類する傾向があると感じています。理由は、使い道がはっきりしないとき、形や動作ではなく、残された性質のうち明確なもの、つまり素材が一番分かりやすいからです。たとえば、陶器のレモン絞りと陶器のかけらがあった場合、日本語話者はそれを「陶器」という素材でひとくくりにするかもしれません。一方、同じレモン絞りでも木製だったら、壊れたときに「木」として分類するでしょう。卵型の陶器と陶器のかけらの場合も、卵ではなく「陶器」という素材のつながりが優先されると思います。つまり、機能が失われると素材が主語になる、という自然な分類の流れがあるのではないでしょうか。

Q4: 英語話者の加算・不加算の違いは?

私は、英語で可算名詞と不可算名詞名詞を分けることが、モノの見方そのものに影響を与えていると考えています。たとえば、英語では「cup」は数えられるけど、「ceramic(陶器)」は数えられません。この区別は、「まとまりのある形」を意識する英語話者の感覚とつながっています。バターの例で言うと、切ってもそれはバターのままなので不可算ですが、ケーキのように切ったら「a piece of cake」として数えられるようになります。つまり、切っても同じモノとして成り立つ素材は不加算、切ることで変化するものは加算、というような考え方があるんです。だからこそ、英語話者は素材よりも“形としてのまとまり”を重視する傾向があるのではないかと感じます。

Q5: 「素材としての本質」とは何か?

「素材としての本質」とは、たとえ形が崩れてもそのモノのアイデンティティが変わらない状態だと、私は考えています。たとえばバターなら、どれだけ細かく切っても、それはバターとして認識されるわけです。でもその使い道によっては、本質も変化します。例えば、レシピで「小さじ1のバター」と指定されているとき、それより小さく刻まれてしまったバターは“機能”を果たせなくなります。これは、砂浜の砂をどこまで取ったら砂浜でなくなるか、という哲学的な問いにも似ています。つまり、モノの本質は連続的でグラデーション的なものだということで、それをどこで線引きするかは、結局のところ私たち一人ひとりの価値観に委ねられているのだと思います。

Q6: 思考はどこまで言語に支配されている?

私は、思考はかなりの部分で言語に制限されていると思います。なぜなら、私たちは何かを考えるとき、ほとんどの場合その考えを言葉に置き換えて理解しようとするからです。でも、実際には頭の中ではもっと自由なイメージが広がっていて、物理学者のような人たちはその自由さを使って理論や数式を作っているのだと思います。つまり、言語は「考えるためのフォーマット」ではあるけれど、それ自体が思考を狭めてしまう側面もあるということです。言語によって“暗黙の前提”が共有されるのもそうで、それが思考の幅を知らず知らず狭めていることもある。だからこそ、私は言語に頼りすぎず、イメージや感覚で考える力も大事だと思っています。

Q7: 言語を超えて考えるとは?

私にとって「言語を超えて考える」とは、直感的なイメージを通して物事を理解することだと思います。なぜなら、私たちはすべてを言葉にしなくても理解できるし、むしろ言葉にできない部分にこそ本質があることも多いからです。物理学者が頭の中で法則をイメージしたり、芸術家が絵や音楽で感情を表現するのも、すべて言語を超えた思考の一例です。たとえばピカソの絵を見たとき、それが何を意味するのか言葉では説明しきれないけれど、心には何か強く残ります。私は、そういった非言語的な感覚がとても大事で、それがあるからこそ、私たちは言葉だけではたどり着けない視点にたどり着けるんだと思っています。

Q8: 直感やイメージはどこから来る?

私は、直感やイメージは生まれつきの感覚と、経験から育まれる視点の掛け算で生まれると思います。確かに天才と呼ばれる人には、生まれつき優れた直感を持っている人もいるでしょう。でも、それだけではなく、自分が触れてきた本、映画、絵画、音楽などの多様な体験が新たな視点を与えてくれるのです。重要なのは、そうした他者の視点をただコピーするのではなく、自分自身の視点と組み合わせること。たとえば私はある本を読んだときに、著者の考え方をそのまま受け入れるのではなく、自分の経験や価値観と照らし合わせながら読んでいます。こうして得た“掛け算の視点”が、私にとっての教養であり、それが直感やイメージの源泉になっているのだと思います。

Q9: 教養とは何か?

私にとって教養とは、多くの「視点」を持っていることです。なぜなら、モノを見る角度が増えることで、その本質に近づくことができるからです。例えば、同じ出来事を「自分の視点」「作者の視点」「社会的文脈の視点」で見ると、見えてくるものがまるで違ってきます。私は、本や映画を通して他者の視点に触れるようにしていますが、それをただの知識として受け取るのではなく、自分の視点とどう組み合わせられるかを意識しています。視点はただの“情報”ではなく、“身体感覚”だと感じています。それをつかむために知識が手段として機能している。つまり、教養があるとは、単に知識が多いことではなく、視点の持ち方が豊かであることだと思います。

Q10: 最近、視点が増えたと感じた体験は?

最近、ある哲学書を読んだことが、私の視点を大きく広げてくれました。その本では「人間のモノの見方は言語によって決まっている」という内容が扱われていて、私はそれを読んだとき、今まで当たり前に思っていた感覚が言語に縛られていたことに気づきました。たとえば、陶器の欠片やレモン絞りの分類について、自分がどう判断していたのかをあらためて考えるきっかけになったんです。その本を読んだあと、街中で見かけるモノに対しても「これは形で見てる?それとも素材で見てる?」といった問いが自然と浮かぶようになりました。そんなふうに、自分の中の当たり前を疑う視点を持てたことが、最近の私にとっての一番の気づきです

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